教えのやさしい解説

 
血   脈
 血脈の語は、一般的には「ケツミャク」と読み、血管、血統、血筋(ちすじ)の意を表します。仏教用語として用(もち)いる場合は「ケチミャク」と読み、このときは仏教の伝統、法統の意を表(あらわ)し、教理を師匠から弟子へと代々伝えていくことをいいます。
 仏教の伝法の在(あ)り方には、書伝・口伝(くでん)・心伝(しんでん)等がありますが、このうち日蓮大聖人の仏法における血脈は、口伝が主意となる金口嫡々(こんくちゃくちゃく)唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈相承です。
『日蓮一期(いちご)弘法(ぐほう)付嘱書』に、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨(あじゃり)日興に之(これ)を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり(乃至)血脈の次第日蓮日興」
(平成御書一六七五頁)
とありますように、ここに日蓮大聖人は血脈の次第を「日蓮日興」と明確に示されて、日興上人ただ一人に仏法の一切を相承されたことを明かされています。
 日蓮大聖人の宗旨(しゅうし)の深義(じんぎ)である三大秘法とその法義は、常随給仕(じょうずいきゅうじ)の間に口伝、または筆受(ひつじゅ)によって日興上人に滞(とどこお)りなく伝承されておりますが、その総括的な証拠文献が、いま挙(あ)げた弘安五年九月の『日蓮一期弘法付嘱書』と、同年十月の『身延山付嘱書』なのです。
 また、この血脈相承は師資(しし)相承ともいわれ、師弟相対して法門を相伝することをいいます。これは祖先の血統が子孫に伝わるように、仏法の伝統法義の一切を師僧から弟子に伝授することをいうのです。この唯授一人の血脈相承により、大聖人の法水(ほっすい)は第二祖日興上人へ、そして日興上人から日目上人へと一器の水を一器に瀉(そそ)ぐように承(う)け継がれ、正しく末代に伝えられるのです。
 但し、この血脈相承は、あくまでも師弟相対する函蓋相応(かんがいそうおう)の信心によるものであり、これを受ける方が大聖人の本地甚深(じんじん)の仏法を鏡のように拝鑑(はいかん)し奉る境地に到達されていなければ、よく師の付嘱を受けられません。
 第五十六世日応上人は『弁惑(べんなく)観心抄』に、
「唯授一人嫡々血脈相承にも別付(べっぷ)総付の二箇(にか)あり、その別付とは則ち法体相承にして総付は法門相承なり、而(しか)して法体別付を受け玉(たま)ひたる師を真の唯授一人正嫡(しょうちゃく)血脈附法の大導師と云ふべし。又法門総付は宗祖開山の弟子旦那たりし者一人(いちにん)として之を受けざるはなし。蓋(けだ)し法門総付のみを受けたる者は、遂には所信の法体に迷惑して己義(こぎ)を捏造(ねつぞう)し、宗祖開山の正義(しょうぎ)に違背す。」(同書 二一一頁)
と、血脈相承に別付(法体相承)と総付(法門相承)の二つあることを明かされています。
 私たちは、法体別付の相承すなわち本門戒壇の大御本尊を御相承される御法主上人に信伏随従することにより、日蓮大聖人の仏法を正しく持(たも)つことができるのであり、そこに信心の血脈が流れ通(かよ)い、本宗の僧俗一同が法門総付の相承を受けられることを知るべきです。信心の血脈の本義は、まさに本門戒壇の大御本尊と血脈法水(ほっすい)への信仰にあるのです。